
【健瀧ゼミナール 027】 茶碗に満ちる人の心
茶というと、あの人物を思い出さずにはいられない。また語らずにはおられない。 100年前の明治時代に、エコロジーである自然と共生を説いた先見の書、「茶の本」です。 「茶の本」は、明治時代に活躍した美術運動の指導者、文明思想家の岡倉天心(1862~1913)が、その後半生にアメリカに渡り、欧米の読者に向けて英語で執筆した。 天心は、茶には伝統的な東洋文化および日本文化の精神が凝縮されていると考え、茶の歴史や、その背景にある思想、茶が産み出した芸術性な美意識を様々なテーマを通して、日本文化の伝統的な東洋文明の根底に流れる心や精神(思想)が、いかなるものであるかを説いています。 「茶の本」は岡倉天心がアメリカのボストン美術館で、何と東洋文化の一連を講義したのです。その情報がアメリカの雑誌に記載され、それが更に、一冊の本になりました。 タイトルは「茶の本」と名付けられましたが、茶道の手引き書といったものではありません。 天心はこの本の中で、茶を中心軸に様々な話題を行き来しながら、日本や東洋の根底に流れるコスモロジー宇宙観を説いています。 ***** 茶時を

【健瀧ゼミナール 026】 陰陽五行で解く、「茶の一服」
茶は陰陽五行の一服です。 実に茶というものは、間の中に一服の一時を寛ぎ、和むことを与えてくれるのです。 それを陰陽五行で解けば、水を鉄瓶に入れ、沸かし蒸気が上がります。 この情景を観ても、蒸気として気が生じます。 電気湯沸し器で湯を沸かすのもよろしいですが、鉄瓶で沸かすのも風情があり、自分の気が和みますね。 ここまでの課程をみても、水気と金気、火気が生じます。 また鉄瓶である器だから、陽の気で外水を中に入れるから陰の気であります。 ここまでで、陰陽三気を生じています。 それから茶を入れる茶碗の器は陶器であれば土で作られています。つまり、土気を生じます。 後は、茶葉は当然、木気であります。これで陰陽五気を生じるのです。 そして茶時を行うと言うことは、まさに茶葉は三碧木気でその事象は言葉を発するということになります。 それに湯をそそげば、四緑木気を生じ、その事象は互いに対して合するということで、その両者の気が複合することで、会合し話すという事象が生じます。 そのお茶には熱の九紫火気が入っているので、暖かみを生じます。 また陶器は土の気であり、柔かに和

【健瀧ゼミナール 025】 生きとし生けるものの祝祭と環
年中行事や、このお盆の送り火も、陰陽五行で説けば、五気の四季循環の火気でつくられる夏であり、その火の気で祖霊を迎える迎え火、またその祖霊を火の気で送る送り火なのです。 当時の日本も、弥生時代から中国の道教の影響はあるとは言え、これも縄文からの人々から現在までの祖霊たちの祈りの姿を私は思い、感じざるおえません。 それも様々な人生を営まれた方々の魂たちを思えば、何故か、涙が出てきて止まりません。私には祈ることしかできません。 その生命の繋がりが現在の日本をつくって来た、我々の祖先や両親から自分が生まれ出て来たのかと思えば。まことに何とも言葉では表せない、まことに魂への祝祭と感謝として祈らざるおえません。 それは縄文以前からのあらゆる生命や縄文の人々が、この日本列島の島国で命がけで天災とも闘い、自然や気候風土と共生し築いた自然崇拝から文化が、われわれ日本人の血に流れているのです。 その真実を尊さを、われわれ日本人は決して忘れてはなりません。 いや地球が生まれてから、生命が誕生してから、日本民族が生まれてからの命がけで、生きて来られた生命を繋げてきた、そ

【健瀧ゼミナール 024】 お盆についての大事なゼミナール
お盆というのは、古来からの日本の祖霊信仰に、中国の道教の思想が統合して、つくられた日本の年中行事です。 日本に伝来した仏教はインドで釈迦の悟りにより、発祥しました。 そして中国、朝鮮半島を通って伝来しました。その間に純粋な原始仏教(悟り・解脱)の思想は翻訳においても、道教的な解釈をされ随分歪曲され、日本に伝わって来ました。 現代では、お盆というと仏教的な行事と思われおりますが、正確に解釈すれば、日本的な祖霊信仰と仏教と道教の習合した年中行事ということになります。 日本でも昔は和暦=旧(暦太陰太陽暦)の8月15日を中心にお盆は行われていました。現在の新暦(太陽暦 )で、いうと7月15日ということです。 お盆の正式な名称は、「盂蘭盆絵(うらぼんえ)」といいます。 この思想も道教が入っていますので、鬼や鬼門が。出てきます。それが閻魔大王です。 それにお正月とお盆は格別な供養行事にするのかというと、お正月は一年で最も寒い時期で、陰陽五行で陰極から春を迎える一年の大きな節季(気)で一年の始まりです。 この事象に方位を配当すれば、まさに表鬼門です。新しい気が

【健瀧ゼミナール 023】 世界が統合され、一元に治まる、朱子の理気思想
世界は、自我により二分化して来た。 エゴイズムと分裂の西洋的な構造での競争社会は、資本主義としてもカタストロフを越え、解体へのベクトルは一層、加速度がついてきた。 それが、ユーロー圏のギリシャの破綻であり、イギリスのユーローからの離脱である。 エゴイズムを基盤にグローバル化した、自然支配思想の近代化は、イギリスやフランスから始まり、長い年月をかけ、東洋までも支配して来た。 そのエントロビーはカタストロフから、解体へと相転移が起き、終焉へと加速度がついて行くのである。 あのギリシャのアテナイが産み出した、哲学者の巨人達から、ギリシャは何を学んだのであろうか? それが存在を思考し、言語化して行く困惑と混迷は、現在に象徴として反映されたのである。 「その存在とは何か?」この問いに東洋の思想は簡単に解き明かしているのである。 これはそんなに神秘的な答えを求めようという問いではない。 在るということは、例えば「つくられてある」という意味なのか? 「成り出でて在る」という意味なのか? を問おうとするものなのである。 こうした意味での存在への問いは、われわれ日

【健瀧ゼミナール 022】 「哲学は言語に依存した二元論」それは切りのない言語ゲームである
実に哲学は、「存在」というと重苦しくなりますが、人間を含む生物やモノなど、地球上に在りとし、あらゆるモノが在るということはどういうことなのか? それを全体として研究しようとする学問です 。 近代の哲学者、東洋思想の易(宇宙論)を研究し、易の陰陽二元論から応用し、二進法からコンピューター理論をつくったライプニッツは、「何故、何もないのではなく、何かが存在するのか?」(少し難しいかもしれませんが『理性に基づく自然と思惟の原理』)と問いかけ、問題にしています。 二十世紀最後の天才哲学者と言われたウィットゲン・シュタインでさえ、神秘的なのは「世界がいかに在るかではなく、世界が在るということである」という言い方をしています。 またウィットゲン・シュタインは、哲学は言語ゲームであると言っています。 ハイデッカーはもっとはっきりと、「哲学するとは〈何故一般に存在者が存在するのであって、むしろ何もないのではないか?〉を問うことである」と言っています。 この西洋的な言語執着の切りのない、二元論の言語ゲームを、小中健瀧が継承する理気学・東洋思想の朱子学理気論にて、見