
【健瀧ゼミナール 021】 伝家の宝刀
つまり、哲学は、人間を中心にあらゆるものの存在を説明しようとするものですが、その論理の大前提にはデカルトのいう、「我れ思うが故に、我れあり」ということで、自我を肯定するもので、自己の存在や自己を肯定することはないのであります。 これが哲学の致命傷であります。 私はこのデカルトの論法、コギト・エルゴスム「我れ 思うが故に、我れあり」を数年前に、人間の元型から普遍性に至る、自己を肯定する縄文や東洋思想の根本原理である円環と調和の自然思想として、「我れ在るが故に我れ思う」という、を提唱しています。 そういう意味で、ここ世界はデカルトマジックに掛かり、近代文明を強いられてきました。 特に、東洋件は自然と同化・循環・調和する思想文化でありました。 しかし、それはかつて、アングルサクソンの西洋人たち(イギリス、フランス、ロシア)にアジアの殆どが侵略され、西洋思想(キリスト教、デカルト思想)を強いられてきたのです。 そして、彼らの定義である、自我中心の生命の尊厳性から離脱した、自然を支配する機械的二元論近代化から資本主義、マネーゲームの世界に化かされてのです。

【健瀧ゼミナール 020】 自然智は化石になっていく
この前までの話であるが、プラトンが言った、存在する〈オン〉という言葉を使うことで自分がいったい何を言おうとしているのか? 哲学者にとっては、「存在」と言う言葉をどう考えたらよいのか? 途方に暮れるほど解らない、という意味になるのである。 これはドイツの哲学者ハイデイカーが、「存在と時間」の冒頭に引用した為に、改めて注目されるように、なった一節である。ギリシャ哲学の三山の巨人・プラトンはこの少し後で、有名である「存在をめぐる巨人の戦い」という言葉をもち出している。 そこで、彼の弟子であるアリストテレスは、この問いをもっと明確にして、「事実かつても今も、またこれからも、絶えることなく「哲学」がそこへ向かう途上にありながら、いつも繰り返しそこへ通じる道をみいだせないでいるもの、それは「存在者である限りでの」存在者とは何であるかという問いである」と言っている。 このうち、「存在者であるかぎりの存在者とは何か?」と言う問いかけについて、アリストテレスは別のところで、こんなふうに問いを深めています。 「存在者であるかぎりでの存在者を研究し、またこれに本質的に