【健瀧ゼミナール 056】健瀧、風来心旅(水戸編)
先週、水戸黄門様ゆかりの水戸に来て、水戸光圀公後、最近の水戸風情や人々はどう変わって行っているのか、など街を観ながら風来しました。 このスタンスが、私に最も合っているのでしょうか。 「風」という言葉は能の世阿弥も風姿花(華)伝という能の極意書に使っています。
他にも「風景」、「風情」といったように、「風」の象徴的な表現は、何を表しているのでしょうか?この普遍的な表現は、単なる文字に依存しなかった、縄文人達の魂と身体を、自然に共生した超越的な表現の傑作と、私は思考します。
皆さんも考えてみて下さい。 このように、大和言葉や万葉集に詠われる、言霊から言の葉に表現される感性と心の機微は、まさに日本の誇るべき、縄文文化の素地なくしては、語れないでしょう。
話はそちらに逸れましたが、話の続きに戻りまして、水戸駅から、いつものようにぶらりぶらりと心と身体に任せながら、歩いていると最初の印象的なシンクロが起きました。
最初に入った店は水戸の老舗・牧之原という茶店です。
この店の主人は気負いなく、自然にお客様にお持て成しをされ、奥さんの和やかな心遣いが、見事に内助の功を果たしていました。
まさに「夫婦善哉」の麗しさが、店の雰囲気を醸し出していました。この情景は昔の日本の至る所に有った、日本人の情と心の温かさを感じました。
現代は中々こういう店は探してもあるのか無いのか、分かりにくいですね。実に残念です。このような情景は今の日本では、普通は探さないと中々、見当たらない。
本当に僅かになって来て、寂しいものです。
そのせいか客が切れなく、出帰り入れ替わり客が来られる。
私は客がおられるので、茶を嗜めるのはやめて、隣のコーナーの茶器のコーナーに移った。私の気配に気がついたのか、奥さんが寄って来られ、「御茶をどうぞ」と出されました。
すると奥さんが、「何かお探しでしょうか」と、心の籠った声で私に問われた。
いや、「私は御茶が大好きで、旅に出たらいろんな地域で、善き御茶屋さんを探すのです」と返事をしました。
そうすると、女将さんが、「まあ、お恥ずかしい」と健気に呟かれました。
私も「お恥ずかしい」と自然に言葉に出ました。
いや、人というものは、実に不思議です。
一橋学園前の宮鍋園の夫妻も人情と賢い人たちですが、またここの夫妻は素直な人ほど、相手が謙虚になれば成る程、自分も謙虚になれるのですね。
そうすると私は、今日日(きょうび)少ない善き御店の情景を魅させて頂きました。
私は御茶を戴きながら、いや実に御茶は不思議なものですと、語り始めました。
ここでブーメラントークですが、今、京都や滋賀県の琵琶湖周辺では、東京のような物の合理的な世界で心を忘れて行くのではなく、もう一度、日本人の心を大事に見直すことをし、京都市と京都大学、稲盛和夫さんと市民で「京都・心の会議」を定期的に行なっている。さすが京都と言わずにはおられないですね。 (続く)