【健瀧ゼミナール 023】 世界が統合され、一元に治まる、朱子の理気思想
世界は、自我により二分化して来た。
エゴイズムと分裂の西洋的な構造での競争社会は、資本主義としてもカタストロフを越え、解体へのベクトルは一層、加速度がついてきた。
それが、ユーロー圏のギリシャの破綻であり、イギリスのユーローからの離脱である。
エゴイズムを基盤にグローバル化した、自然支配思想の近代化は、イギリスやフランスから始まり、長い年月をかけ、東洋までも支配して来た。
そのエントロビーはカタストロフから、解体へと相転移が起き、終焉へと加速度がついて行くのである。
あのギリシャのアテナイが産み出した、哲学者の巨人達から、ギリシャは何を学んだのであろうか?
それが存在を思考し、言語化して行く困惑と混迷は、現在に象徴として反映されたのである。
「その存在とは何か?」この問いに東洋の思想は簡単に解き明かしているのである。
これはそんなに神秘的な答えを求めようという問いではない。
在るということは、例えば「つくられてある」という意味なのか?
「成り出でて在る」という意味なのか?
を問おうとするものなのである。
こうした意味での存在への問いは、われわれ日本人にとって、大変重要な問題である。
この問題に対して、東洋思想の朱子はこう説いている。
「自然と人間の究極的な根源たる太極より、陰陽二気を生じ、その変合より水火木金土の五行が順次に発生し、そこに四季の循環が行われる。 また陰陽二気は男女として交換し、万物を化生するが、その中で人は最も優れた気を享けたため、その霊万物にの優れた聖人は全く天地に自然と合一している。故に人間道徳は、こうした聖人の境地のところに存じる」と。
つまり社会を動かしているのは、天然自然の理(ことわり )であり、その理に従い、理に合った世界を造って行くことが、人間にとって最も望ましく、それもまた理であると説くのである。
見事に、西洋的な自我では強くなればなるほど、欲性は誘発され、人間の欲は増大し、現在のようなエゴイズムな世界を造ってしまう、と論じているのである。
それよりも天然自然の理に従った生き方をすれば、真実のアイデンティティーが養われ、人類世界は各々の個性も育ち、自然と共生する循環型の世界が築かれる。
要するに、自然から生まれた人間を含む万物は、全て調和され、治まるべきところに治まると言っているのである。