【健瀧ゼミナール 060】「茶は生の術」茶道として生きる老荘思想道教は「絶対である相対性」と「不完全性の美学」を説く、それが「道」である
岡倉天心は、「茶」は姿を変えた「道教」であるという。
まさにそう言える。 「道」は字義としては通略を意味するが、道教においては宇宙の根本原理である。 それは何事によっても限定されないものという思想である。
天心は老子の言葉を引用し、その概念を次のように語っている。 「あらゆるものを孕んだ、天地に先立って生まれたものがある。
何と静かなことであろう。
何と孤独なことであろう。
一人きりで立ち上がり、そのまま変わることはない。
やすやすと自転し、万物の母となる。 その名を知らないので、「道」と呼ぼう。
無限と言っても構わない。 無限は素速いということであろう。 素速いということは消滅するということであり、消滅するとは戻ってくることである。
つまり、道とは移り変わることであり、一つの真理が様々な姿を取りうるという認識を表している。
天心は「道教」の思想を様々な側面から解説をしている。 茶に影響を与えているものとして中心になるのは、「相対性の認識」と、「不完全性の美学」だと言っている。
まず、相対性の認識とは何か?と言えば、先程の道の解釈にも集約されるように、道教では、真理というものは一定の教義や形に限定さるものではなく、様々に姿を変えて現れうるものという。
つまり、相対的であるという。
道教徒は、倫理道徳や善悪すら、相対的なものと見なすのである。 道教における絶対とは相対である。
倫理に関していえば、道教徒は社会の掟や道徳律に対して嘲笑的であった。
善ととか悪とかいっても、相対的なものでしかなかったからである。 何かを定義するとはそれを限定してしまうことである。 「一定」とか「不変」とかいうものは、成長の停止を意味する言葉に過ぎない。
例えば、共同体の日本国の伝統を守るのであれば、日本人の個人を、国家のために犠牲にすれば、日本国民一人一人の全員が犠牲になるということで、一人も犠牲は無くなるのである。