【健瀧ゼミナール 028】 茶に学ぶ日本の心
皆さん、お変わりありませんか?
私は相変わらず、あちらこらと、仕事と日本の聖地や文化の探訪をしています。
この度は最初は法隆寺の中に茶室が在ったと言われる待清庵の門の前を通っていると、門の中から「どうぞ」と言う声がかかり、私は誘われるが如くに身を任せ、門の中に入った。
それは、かなり古いおもむきのある茶室である。
当然、私は抹茶を頼むのだが、その前に、もてなしと思われる、ガラスの細いビールグラスのようなものに、冷たい美味しそうな、ほうじ茶が入っていた。
となりの菓子皿には余り変わりものでない、シンプルなお饅頭である。これもまた、美味しそう。
夕方の五時は過ぎて、結構涼しかったので、そんなに汗はかいてはいなかったが、先にお茶の味を聞き、冷たいほうじ茶を飲んだ。
そんなに旨味はなかったが、喉越しがよく美味しかった。お饅頭も次いでに頂いた。これも特別旨みはないが、まあ、それなりの美味しく頂いた。そうすると、抹茶が出てきた。
今回の出張では、日本茶の優秀な玉露茶を産地、京田辺で手揉み玉露を作っておられる、日本一の名人・山下寿一さんを尋ねます。それと宇治にある名門朝日焼の窯元15代松林豐斎の作品を観に行きます。
この度の目的は煎茶の宝瓶・湯さまし・湯のみの気に入るものがあれば、買いたいと思います。それに、清水の京焼・清水焼の名門・松韻堂 を訪れ、煎茶の宝瓶・湯さまし・湯のみを探し、気に入るものがあれば求めたいと思います。
それでは本題に入りますが、岡倉天心は茶道は、雑念とした日々の暮らしの中におきながら、そこに日を見出だし、敬い尊ぶ儀礼である。
そこから人は、純粋と調和、互いに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものをおしえられる茶道の本質は不完全ということの崇拝。物事には完全問いうことはないということを畏敬のもって受け入れ、処することにある。不可能を宿命とするただ中にあって、それでもなにかしら可能なものを成し遂げようとする心やさしい試みが茶道である。と言っている。
まさに私も、煎茶をやっていて、いつもそのような感覚や気持ちになってくる。
しかし、そこから天心は調子を一転させ、 現代において東洋と西洋が対立しがたいの無理解ばかりが進み、茶道が持つ意義というものも西洋ではまったく理解されていないという状況を嘆きます。
現代世界において、人類の天空は、富と権力を求める巨大な闘争によって粉々にされてしまっている。 世界利己主義と下劣さの暗闇を手探りしている有り様だ。
東と西は、荒れ狂う大海に投げ込まれた二匹の龍のように、人間性の宝を取り戻そうと空しくもがいている。再び女神が現れて、この凄まじく荒廃した世界を修理してくれることが必要だ。偉大なアヴァター(この世に現れる神の化身)が待ち望まれている。
それまでの間、一服して、お茶でも啜ろうではないか?午後の日差しを浴びて竹林は照り映え、泉はよろこびに沸き立ち、茶釜からの松風の響きが聞こえてくる。しばらくの間、儚いものを夢み、美しくも愚かしいことに思いをめぐらせよう。
天心はここで帝国主義が横行し、むき出しの欲望と争いに明け暮れる現代社会の荒廃したあり様を嘆き、こうした混乱を収拾する希望を壮大な古代神話に託して述べたかと思うと、最後は一転して、ささやか日々の暮らしの中の情景に読者を導く。
まさに転調の妙が冴え渡るであるが、それ以上に注目するのが最後の一行にある「美しくも愚かしいこ」言う表現です。
常識的には否定的な言葉しか持たないことばである。俗世間の価値を越えた風流という意味合いで、形容詞までつくられ用いられている。
実に意表を突く発送であるではないか。まさに私は、ある意味で岡倉天心と同じような生き方をしていることに、共感を越えた何かを感じるのであります。