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【健瀧ゼミナール 020】 自然智は化石になっていく


この前までの話であるが、プラトンが言った、存在する〈オン〉という言葉を使うことで自分がいったい何を言おうとしているのか?

哲学者にとっては、「存在」と言う言葉をどう考えたらよいのか?

途方に暮れるほど解らない、という意味になるのである。

これはドイツの哲学者ハイデイカーが、「存在と時間」の冒頭に引用した為に、改めて注目されるように、なった一節である。ギリシャ哲学の三山の巨人・プラトンはこの少し後で、有名である「存在をめぐる巨人の戦い」という言葉をもち出している。

そこで、彼の弟子であるアリストテレスは、この問いをもっと明確にして、「事実かつても今も、またこれからも、絶えることなく「哲学」がそこへ向かう途上にありながら、いつも繰り返しそこへ通じる道をみいだせないでいるもの、それは「存在者である限りでの」存在者とは何であるかという問いである」と言っている。

このうち、「存在者であるかぎりの存在者とは何か?」と言う問いかけについて、アリストテレスは別のところで、こんなふうに問いを深めています。

「存在者であるかぎりでの存在者を研究し、またこれに本質的に属することがらを研究する一つの学問である。この学問は、いわゆる特殊的な諸学問のいずれとも同じではない。他の諸学問はいずも、いずれも存在者であるかぎりでの、存在者を全体として考察したりせず、ただそのある部分を抽出し、これについて、それに付帯する属性を研究するするだけである」

アリストテレスが言おうとしたのは、一般に科学と言うのはドイツ語の〈ファッハヴイッセンシャフト〉つまり個別の訳語であり、存在者全体の内から特定の領域を切りとってきて、そこにある法則を見いだそうとするものである。

しかし、哲学は「存在するものの全体 」そうした様々な領域にわけられる前の状態で、つまり存在するものであるかぎりで、扱おうとするものである。

以上


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