【健瀧ゼミナール 005】 「かみ」と「ひと」をめぐる構図
八百万の「かみ」を宿す自然界を区別して言えば、天地は「かみがみ」の器であり、住居空間ということになり、かみがみの活動の舞台となり、この舞台に行動するのが動植物だったから、神木や神獣として行動するのが「かみ」としての動植物だったのである。
特に、植物の神が憑依して神木となるという、「もの」性は濃厚に残した食物もあるが、それが神格の付与である点で、一時的な「もの」の憑依とは違うところであった。
こうした垂直型の世界観は大陸的であり、「もの」が水平型で海洋的だったことと対立するこの点を区別の第三点とすることもできるのである。
「かみ」と「ひと」をめぐる構図
そうなると可哀想な「ひと」にも別な力を与えなければならないのである。
恒常的な神格として「かみ」が誕生すると「かみ」の力は「チ」と呼ばれたが、「チ」の力は「ひと」にも根源的にあり、同時に「ひと」には「たま(魂)」をもつ言葉の力が期待されたのである。
ちなみに漢字の神は「たましい」も意味する。
「かみ」の力としての「チ」は、いかづち(雷)・かぐつち(火神)・おろち(大蛇)・みづち(龍)のように、サムシング・グレート (偉大なる霊力)の働きの神々のなきに観られるが、「チ」こそが「かみ」の中心の力であることは、「かみ」が「千早ぶる」は宛字で「チ(霊力)がはやぶ((逸)る」ということであろう。
また、あらぶる神・力の神スサノオを「ハヤスサオ」という。この「ハヤ」が凄まじい勢いを示す言葉である。漢字でいえば、速、激などが当たるだろう。
ところが、それは基本の人間力としても認められた。「血・乳」が生命の原動力であることはいうまでもない。
乳(ち)は、乳房が二つあるから「ちち」ともいう。偉大なる父は、「チ」の力を二つも持つとされたのである。
元より活力が「チ」であって、人間に「チ」があるからと言って、尊貴なる存在としての「かみ」と同格になるわけではない。せめて血をすすって神に契約をする程度が「ひと」に許された行為だったである。
さて、そこで古代人は「かみ」に近づく手段を考えた。彼らは神だと信じる動物を養い育て、異界に送ってその神の恩龍を得ようとした。
さらに生け贄として聖なる動物を神に捧げた。そして「ひと」の代表も 生け贄として神に供えたのである。
ここに共通する生け贄こそ、「かみ」と「ひと」とを繋ぐ通路であったと考えられる。
「いけにえ」という日本語は、「生かしたまま、食物として供える」という意味だから、すでに命が失われたものを媒体として、「かみ」との交流を得ようとするものではない。
その為には捧げられるものとして、生き物である動物か人間が必要とされた。
先に挙げた、「かみ」となることのできる万物から、動物だけが特化されていることになる。
人間と同類の動物だけが、「かみ」から見放された「ひと」の「かみ」との和合に、有用だったのであろう。要するに生け贄という行為は、縄文の一元的な環の思想を、弥生の垂直型の天地に二分化した、神格化への破滅的な自己矛盾性が招いた結果であると私は考える。
以上
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