【健瀧ゼミナール 004】 「もの」から「かみ」への推移
正月二回目のゼミナールです。
縄文の「もの」から「かみ」への推移が起きる。
「かみ」は憑依するにしろ、固定した格として存在した。
この信仰の中心の推移をサムシング・グレート(大いなる力・霊力)から神格への変化を見ることができる。
「かみ」は存在そのものだから、サムシング・グレート(大いなる力・霊力)を全身に所有し、時間的にも、空間的にも独立したものとして存在を切り離されているのである。独自の神格を存在を保ちつづけなければならないのである。
その為に「かみ」はそれぞれ限定されていて、永続されるべき神威は客観的に証明が必要となるのである。
それは、より具体的であると同時に融通性は乏しいのである。
第二の特性として言えることは、「かみ」という神格を弥生人はたちは森羅万象に与えながら、人間を除外したことである。
要するに、この世界のあらゆるもの、天象・地勢・植物・動物のすべての状態や動作にかみを感じると、そのものをかみとして存在させたにもかかわらず、「かみ」は「ひと」との対立概念であり、ついに「ひと」は「かみ」ではなかったのである。
天には八百万の天津神が(あまつかみ)いて、大地には国津神(くにつかみ)がいる。
風も、光も雲も雨も、また山々谷に至るまで、「かみ」がいる。神木が在り、それこそ熊も「かみ」なら、日本では狼が「おおかみ」であった。
神秘な蚕も「飼い子」とも「ひめ」とも言って名を言わないのである。
それは「かみ」の証拠である。ところが、「かみ」と「ひと」は別である。
山辺の道にある、箸墓は昼は「ひと」がつくり、夜は「かみ」がつくったといい、古事記・万葉集では「ひと」は恋をするが、「かみ」は恋をしないのである。
まさにかみの誕生は尊貴な「かみ」と卑劣な「ひと」との区別の出発隣、その為に神と上、二つの「み」の発音は仲間の音として区別していた。
この「み」の区別を甲類・乙類として、語義も異なる音韻上の相違とする考えがあるが、ここでは発声上の区別という単語が必要となった。
卑劣な「ひと」には悲しみも発生し、「ひと」は経済を「かみ」に祈ることが要求されたのである。
「ひと」以外の万象は神を認めたから、八百万の「かみ」が自然界に誕生したのであった。
以上
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